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箱根駅伝の歴史

 今回は、私の大好きな箱根駅伝の歴史について書いてみます。

まずはその起源についてですが、そのことを語る上で重要な三人の人物がいます。一人目は1912年のストックホルム五輪に出場するも、途中棄権となった金栗四三。二人目は大正から昭和にかけての体育学者で、アントワープ五輪にも出場した野口源三郎。三人目は明治大学の学生で、札幌・東京間を22日かけて走破した沢田英一です。


 1919年3人は埼玉県の小学校で行われた運動会の審判として知り合い、日本の長距離ランナーを育成するためのイベントが開催出来ないかを話し合いました。そこで生まれたのが、現在の箱根駅伝の起源となる駅伝大会だったのです。
第一回箱根駅伝は、1920年2月に開催されました。大会は地元でも歓迎され、箱根にある旅館やホテルにとっては町おこしイベントとしての意味合いもありました。地元の期待が伺えます。記念すべき参加校は明治、早大、慶大、東京高師(現在の筑波大)の四校のみでした。栄えある優勝校は、東京高等師範学校です。初期の大会は、午前中の授業の影響もあって午後から始まるようになっており、選手がゴールした時は真っ暗になっていたことも少なくありませんでした。

また、第二次世界大戦の影響は箱根駅伝にも及んでいます。1941年1月と11月には戦争により東海道と箱根路が使用できなかったため、明治神宮から青梅の熊野神社間で往復する形で箱根駅伝が実施された事もありましたが、これは歴代の大会にはカウントされていません。また、その翌年には戦時命令として日本学連が解体され、駅伝大会も中止となりました。しかし1943年には、戦時下ながら靖国神社から箱根神社までを往復するコースに変更して実施され、日大が5回目の優勝を果たしました。

1953年にはNHKラジオによる全国中継が始まり、1979年にはテレビ東京による初のテレビ中継(ゴールだけ生放送)を行い、翌年はNHKが二区のみ中継しました。全国中継は1987年に日本テレビによって開始され、現在の20%以上視聴率がとれる“お化け番組”になりました。

今回は、箱根駅伝の起源とその歴史についてまとめてみました。
学生たちが必死で走りぬく姿は、いまや新春の風物詩として定着しています。その立ち上げに関わった、金栗四三ら当時の若者たちの「世界に通用するランナーの育成」という理念は、これからも脈々と受け継がれてゆく事でしょう。

最後に・・・皆様、1年間私の記事を読んで頂き誠にありがとうございました

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