手洗い
今回は、コロナ感染症の中で改めてその重要性が再認識されている『手洗い』について書きたいと思います。果たして『手洗い』が感染症予防の大事な行為として認められるようになったのは、いつの時代からなのでしょうか?
ハンガリーの医師イグナーツ・ゼンメルワイス(1818~65)は19世紀半ばにウイーン大学総合病院の産科で働いていました。当時のヨーロッパでは産後に死亡する婦人が少なくなく、問題になっていました。死亡原因の多くは産褥熱(さんじょくねつ)でした。産道から細菌が入り、重い感染症となって命を落としたのです。ゼンメルワイスが勤務していた産科は第一産科と第二産科に分かれており、第一産科は医師と医学生のグループ、第二産科は助産師が担当していました。患者の振り分けは平等でしたが、第一産科の死亡率が10.3%に対して第二産科の死亡率は2%と大きな差があることに彼は気が付きました。この差に疑問を持ったゼンメルワイスは、医師らのグループだけが死亡した患者の解剖をしていることに目を付けました。よく観察してみると、医師や学生は解剖をしたまま手を洗わずに出産を控えたの産婦の産道を検査していたのです。その当時はっきりとした病原体を知るすべはなく、彼は死体に付いている何か悪いものが彼らの手で運ばれるのだろうと考えたのです。
ゼンメルワイスは、産婦の処置の前に手を洗うように主張しました。手指消毒を導入してみると、劇的に産褥熱の発生率は下がり第一産科と第二産科の死亡率の差は無くなったのです。これは、感染を防止するための手指消毒の重要性を示す大変貴重な歴史的事例でした。
しかし、彼が生きている間にこの功績はあまり評価されませんでした。それは、自分たちが死亡率の高い原因をつくったと指摘された医師のグループ、つまり同僚の医師や上司から強い反発や中傷を受けたからです。その後ゼンメルワイスは冷遇され、解雇されてしまいました。彼は故郷へ戻り、現在のブダペストにあったペスト大学で産科教授に就任します。無給で指導に当たった聖ロクス病院では手洗いや消毒の徹底により、産褥熱の死亡率を0.85パーセントにまで減少させています。こうした成果を元に、1861年には自身の主張をまとめた本を出版しました。しかし、学会からごうごうたる非難にさらされ、病理学会の権威たちから名指しであざ笑うなどされ続けるうちに、ゼンメルワイス自身も意固地を極めてヒートアップ、各地の病院を回っては鬼気迫る顔つきで手洗いの重要性を連呼した結果、ますます危険人物扱いされていきました。ついには神経衰弱やアルコール中毒の様相を来し、1865年に47歳という若さでその生涯を終えました。
『病気を予防するために手を洗おう。』今や誰もが“常識”だと信じて疑わないこの習慣は、かつて科学者や医師たちが鼻で笑い飛ばした“非常識”だったのです。ゼンメルワイスの死後、ペスト大学の産科医院の死亡率は再び跳ね上がりましたが、それでも彼の業績を認める者はほとんどいませんでした。フランスの細菌学者ルイ・パスツールが病気の原因となる細菌の存在を特定し、ゼンメルワイスが提唱した微粒子の正体を突き止めたのは、彼の死から20年後のことでした。ようやく功績が認められたことで、彼の名はいつしか「母親たちの救い主」「院内感染防止の父」と呼ばれるようになったのです。