私の母
今回は、6月8日に87歳で永眠しました私の母について書かせていただきます。
私の父が勤務医(外科医)として働いていた時、父は夜遅くまで家に帰ってくることはありませんでした。1歳上の姉(当院薬剤師の大川)、私、2歳下の妹と年の近い3人の子供を寝かせるために、母は妹をおんぶして私と姉が乗った乳母車を押して寝苦しい夜によく散歩をしてあやしたようです。母は今で言う“ママ友”に、よく「母子家庭だね。」と言っていたそうです。父と同じ外科医の道に進んだ私も多忙を理由に帰りが遅く、2人の子育てはほとんど妻に任せきりで、今でも感謝とともに反省しきりです。
昭和50年12月に父はこの地に藤沢医院(当時は藤沢外科醫院)を開院したとき、末っ子の弟は当時1歳でした。今私が内視鏡や超音波に使用している部屋が当時はオペ室、2階の点滴部屋は全て入院患者さんの病室で、2階にはナースステーション(現在はカルテ庫)がありました。父は外来・手術・入院患者さんの治療・救急車の受け入れ・往診と、今の私の何倍も働いていました。当時東浦町内には医療機関が6ヶ所くらいしかなかったため、今でも患者さんから「お父さんには家まで往診に来てもらった」という話を本当によく聞きます。私たち子どもがすやすや寝ているときに急患が来ると、母は弟を背中におんぶして父の治療をよく手伝ったそうです。
父と母は、昭和30年代に三重県の国立病院のオペ室で初めて知り合いました。母がオペ室の看護師として働いていたときに、父が外科医として赴任してきたのです。オペ室の看護師はある意味とても特殊な仕事で、“器械出し”という役割がもっとも象徴的です。皆さんもテレビでオペ室のシーンを見たことがあると思いますが、術者の横で手術器械を渡すナースのことです。何が大変かというと、オペ室を利用する外科医はいろんな科に属します。脳外科・眼科・耳鼻科・口腔外科・心臓外科・呼吸器外科・消化器外科・泌尿器科・産婦人科・整形外科・形成外科・皮膚科などなど・・・・。これらの科で使用する器械が何十種類、時には100以上もあって、それぞれの科で異なるのです。すなわち“器械出し”のナースは何百種類もの器械の名前と使い方を覚えないといけないのです。ベテランのナースは“術野(じゅつや)”をよく見て常に手術の進行具合を確認しています。術野とは手術が行われているフィールドのことで、私と父が専門としていた消化器外科の分野であれば、「今癌がある胃が取れそうだ」とか「これから腸を縫合する」といった具合です。最も気の合うナースであれば、術者が声に出さなくても手を出しただけで、自分が欲しい器械をパシッと手の平に入れてくれます。最もこうなるには、自分がそれだけのきちんとした手術ができるようにならなくてはいけないのですが・・・・。
私が想像するに、きっと父と母はお互いに尊敬できる外科医とオペ室ナースであって、あうんの呼吸で手術をしていたのではないかなと思っています。
話が長くなるので、続きは来月の第二弾までお待ちください。
今月は、先月に引き続き私の母の思い出について書かせて頂きます。
前回は、外科医と“器械出し”ナースがあうんの呼吸で手術を行うことを書きました。
ここで上皇陛下の狭心症の手術を執刀された天野 篤教授(前順天堂病院長)について触れさせていただきます。上皇陛下の治療方針が手術と決定された際に、天野教授は「きっと自分に手術の依頼が来る」と予想されていたそうで、これはとてもすごい話です。そしてこの話は現実になった訳ですが、宮内庁からの条件は「東大病院で入院・手術を行う」というものでした。これは難題で、手術したことがない場所で“100%成功する手術”をしなければいけないのです。最終的に天野教授がお引き受けした上でお願いしたのは、「自分を手伝うドクター、器械出しのナース、自分が使用する器械は順天堂からお願いします。」というものでした。後に天野教授は「100%成功する自信があったし、それだけの誰にも負けない経験と研鑽を積んできた。」と後日談で話しておられますが、待合室に天野教授の著書が1冊置いてありますので、興味のある方は是非読んでみてください。このように、外科医にとって器械出しナースはとても大切な相棒なのです。
母は、藤沢医院でも夜中の緊急手術で父を手伝っていました。弟を目の届くところに寝かせながら・・・。私たち4人の子供が大きくなるまでは、自分の余暇は全くといっていいほどありませんでした。我々が成人してから、ようやく気の合う仲間と小旅行に行ったりすることができるようになりました。
父の十二指腸癌が判明したときに、私は順天堂を退職して地元に帰ってくる覚悟を決めました。父と一緒に短い間でも外来をできたことはいい思い出になりましたが、最期に大きな心残りがありました。それは、父の癌が再発して治らないとわかったときに、父に「家で看取る」と約束したのですが、栄養点滴をするために私の説得に応じて入院した父が退院2日前に突然最期を迎えたのです。この経験から、私は「母の面倒は家でみて、可能な限り家で看取る」と決めていたのです。もちろん、私たち兄弟(姉妹)の助けを借りての話ですが・・・。
一昨年に母は転倒して左大腿骨を骨折、手術を経て2か月のリハビリののち退院してきました。もともと糖尿病が悪くて視力は測定不能でしたが、44年の染みついた感覚で家の中を歩行器を使って歩いていました。5月8日の朝に突然の呼吸苦で母は緊急入院となったのですが、約1か月間ICUで人工呼吸器の助けを借りて頑張っていました。気管切開ののち、一般病棟に転室してこれからという2日目に母も急変の連絡が来て逝ってしまいました。結局私は両親の死に立ち会えず、家で看取ることも叶いませんでした。
しかし、両親を介護した経験は在宅医療で頑張っておられる患者さんのご家族の気持ちを考える上で、きっと役に立つに違いないと考えています。自分の両親を話題にして2回に渡り書きましたが、きっと二人とも許してくれるでしょう。